山彦の会のあゆみ

 

山彦の会の始まり

 山彦の会は昭和53年2月に産声をあげました。それまで市内には障害者の親のグループがいくつかありましたが、人数も少ないものでした。武蔵野市では昭和48年に国や東京都よりも早く全員就学を始め、福祉についても僅かながら関係者の中に何かをしなければという気持ちが芽生えてきた頃でした。市に要望をしていかなければならないし、市民の方々にも知的障害者に正しい理解を求めていきたいとの思いがあり、市内の幼児から成人まで、在宅・施設入所者すべてを含めた親の会があったらと、当時の相談員や武蔵野市役所の障害者担当の方々が中心となり地域の知的障害者の家族と話し合い、山彦の会が結成されました。当時の会員数は150名を超えていました。

 

山彦の会名前の由来

 『お互いに声を大きくして遠慮する事なく呼びかけた時に答えが返り、響きが大きくなっていくように』

との願いを込め、当時の武蔵野市長であった後藤喜八郎氏が命名しました。

 

活動を始めた親たち

 大伊茂子初代会長は、地域の方々に障害を持つ子供たちへの正しい理解をしてもらう事、またその親たちが障害を持つ我が子の世話をしながら一生懸命に頑張っている姿を見て頂く事が大切と、会の結成以来、活動を通じて努力を重ねてきました。市の障害者関係の協議会その他への参加はもちろんのこと、会の運営や様々な活動、親たちが作った手作り品の販売など、今考えても手のかかかる子供たちを抱えてみんなよく頑張ってきたと思います。当初の会では幼児部、児童部、成人部を作りました(現在は一元化されています)。地域懇談会をおこない、役員会報告、会員同士の親睦、手作り品作成などをしています。

 同時期に障害者福祉の日(現在のあったかまつりの前身)の実行委員会に入り福祉展、講演会、ユニークダンス、運動会などに参加。障害者福祉センター設立推進連絡協議会が結成され、昭和56年完成まで委員として山彦の会も参加しました。

 


「山彦の会のあゆみ」その2


 山彦の会の発足当時は障害者福祉センターも法人武蔵野も緊急一時保護も何もない状態で、千川作業所は始まったばかりでした。親は、福祉の進まない時代に、何はともあれ自分の子供は自分の力で守っていかなければならないという大きな使命を持たされて生活していたのです。そういう中で山彦の会が結成されて、武蔵野市の福祉が親の願いと共に行政の多大なご協力で少しずつ進展してきました。

障害者福祉センター

 障害者福祉センターですが、山彦の会は昭和54年の準備段階から、センター設立推進連絡協議会に会長が委員として関わってきました。緊急一時保護制度についても何もなかった時代ですから、当時の会長の経験からセンター設立をきっかけにセンター内に設置をしようという要望をもって話し合いを続けてきました。そして昭和56年1月に障害者福祉センターが落成したのです。(山彦の会会長は、その後も運営委員として携わり今日に至っています。)

 しかし、緊急一時保護制度は、未設置のままでした。山彦の会は一方で滝野川学園に体験入所のお願いを始め(昭和57年7月)、59年8月に初めて2名ずつ2組が利用することができました。そしてその後市からも体験入所の費用を一部補助して頂くように(年間5組―10名)なったのです。

 緊急一時保護制度は58年にやっと始まり、山彦の会の親たちが手伝う事になりましたが、子供との対応にはいろいろ無理があったので、家政婦会と話し合って、協力してもらう事になりました。こうして現在のショートスティにつながる緊急一時保護や体験入所が始まったのです。

手作り品の販売活動

 この間にも、いろいろの動きが続きました。市が主催する福祉関係の会議や福祉の日実行委員会などへの出席は勿論のこと、市の料理教室への参加など、さまざまな活動を重ねてきました。特に忘れてはならないのが手作り品の販売です。第1回バザーは昭和54年10月に境南コミセンで開かれ、それ以後毎年続けてきました。これも会長の指導で何かを作り出そうと会員が必死になって取り組んできた結果であり、その他のミニバザーや販売についても手作り品を置かせて貰えるところを進んで探しに行き地域の皆さんに山彦の会の名を浸透させていったのです。

 昭和59年には、次の年の「武蔵野市成人祝い記念品」の作成を依頼され、レジン

工芸品を取り上げていただき、会の大きな財源となりました。一方では、和紙工芸の眼鏡立て、小ダンス、各種エプロン作りなども好評でお客様に催促されるほどでお店に出す度によく購入して頂きました。

 親は言うまでもなく、みな障害の子供を持っています。当時、学校はやっと全員就学が始まって、重度障害者も全員が通学できるようになっておりましたが、卒業後の通所が全くなく、中経度の人は親や学校が就職先をみつけ、大変な苦労をしながらでも本人を働かせる事が出来ましたが、働けない(生活介護)人たちも大勢いました。そういう中で、自分たちの子供が通う場所を作ろうと、やっと通学できてほっとする間もなく卒業後に向けての取り組みが開始されたのです。まず資金がいる、行政への要望も大事、地域への理解も必要と自分の子供の世話をしながら、皆が心を一つにして、一生懸命頑張っていました。そのような親の気持ちを汲んで下さったのか市役所内でも販売をさせていただくようになり、また市のご好意で吉祥寺のロンロン(現在のアトレ)内に福祉の店を開店する事ができました(昭和62年6月以降――月2日間)。

 その他にも、道玄坂バザール、飯田橋ボランティアまつり(平成3年まで継続――

年一回)、小川商店、中央公園フェスティバルバザー、延命寺薬師講祭、月窓寺ミニバザー、東京電力、多摩信用金庫ミニバザー等々・・・。とにかく声がかからなくても、どこからか話を聞いて即売りに出かけていました。大きな荷物を両手に持ってとぼとぼ

歩く姿は、まるで「誰かの引っ越しみたい」と自分たちで嘆いたこともありましたが、子供たちのために、親の願いを達成するためにと、みな必死でした。

 このあとはパウンドケーキ作りの販売が始まりましたが、このことはあとで触れることにします。


つづく

(山彦の会副会長 中山昭子)